あすなろの樹は、そびえ立つ桧を見上げながら、いつも、明日は桧になろうと念じている。井上靖が、あすなろについて書いた文章に触れたのは、高校一年の頃だったと思う。
それから二年ほどして、彼は、あすなろ物語を著したが、そのあすなろの思いは、私が司法試験に受かる頃まで、ずっと私をとらえ続けていた。それは、まだ社会に出る前の夢と不安に揺れる中で、希望と意欲を与えてくれたし、その一方で、精一杯頑張った。なら、桧になれなくてもいいじゃないかという、慰めのような気持を起こさせてもくれた。
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高校の半ば頃まで、私の夢は、作家になることであった。
まだ戦時中、小学五年生だった頃、疎開していた兵庫県浜坂町の国民学校で、担当の教師が、皆に将来何になりたいかをきいた。特攻隊、戦車兵、潜水艦乗組員と、兵隊志望一色の中で、私だけが、「小説家」と答えた。勇気が要ったから、憶えている。その頃から物語が好きで、そこに広がる人の世界の多様さに心ひかれていたのである。
だから中学から高校へと、小説を読みまくっていた。その作家志望が、新聞記者志望に変わるのは、高校二年生の頃である。
日本の伝統的な純文学のジャンルである私小説というのが、どうにも私には面白くなかった。たしかに事実を描き出してはいるが、主人公そのものに魅力がない。それは、主人公に社会性がないからである。社会の中で生きる人を描くには、作者に社会的体験が必要ではなかろうか。となれば、いろんな社会や人の生きざまを知るには、新聞記者がよい、といったような発想だった。その頃売出し中であった井上靖の「闘牛」などにひかれたこともあった。
という希望だったから、大学は、文学部でなく、法学部を選んだ。そして、小説よりは、現代史や経済学、社会学系統の本を読んでいた。
ところが、そのうち新聞記者志望の方はしぼんでしまったのである。
もう誰が書いたどんな本か忘れてしまったが、大新聞社の記者だった人の本に、新聞社ほど封建的な組織はないと書かれていたのである。戦後まもなくの頃の話なのであるが、自分が取材して書こうとしても上の命令でつぶされたり、きびしい徒弟制度のようなきたえ方をされたり、取材費がろくに使えなかったりと、話はやけに具体的であった。今なら不満を持って辞めた人のグチが大半だろうと割引して読むのであるが、何しろ世間知らずの大学生だった私は、それ一冊で記者志望を捨てた。
そして、記者を志望したのと同じような動機で、法律家になろうと思った。人間と社会に直接触れることのできる職業だということである。逆にいえば、それだけの動機に過ぎず、その世界に入って自分がこういうことをしたいという強烈な動機はなかった。だから、もう一つ司法試験の受験勉強にも身が入らなかったのである。
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私が「これだ」と直感したのが、大学四年生の秋、五七年の九月に摘発された大阪浴場汚職事件である。発足してそれほど間がない大阪地方検察庁の特捜部が取り組んだ大がかりな贈収賄事件で、浴場営業許可等に関する条例改正をめぐって賄賂を貰った府議十八名、業者多数が起訴された。
市民から託された権限を利して私腹をこやす政治家は、社会のガンのようなものである。その摘発は難しいが、摘発しないと社会が腐っていく。その仕事に、人生を賭けたいと思った。
迷っていたあすなろに、やっとめざすべき桧の姿が見えた、という感じであった。
今気付いたのだが、私はあすなろの樹を知らない。小さいが、上に向けてけなげに枝葉を伸ばしている緑の樹、というイメージであるが、それで正しいだろうか。
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