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定期連載 青春の道標
更新日:2005年9月16日
「人はなぜ生きる」 解求め自問の日々

 高校時代から大学時代にかけて、私をとらえて離れなかった疑問が、二つある。
 一つは、「精子と卵子が合体するのは、偶然か必然か」というものであり、もう一つは、「人の生命とウシの生命は等価値か」というものであった。

* * *

 はじめからこんな疑問がとび込んできたわけではなく、ことの起こりは、「ああいやな宿題だな。なんでこんなこと憶えなきゃいけないんだ」という、ごく当たり前の感情である。ともかく記憶することが苦手で、時には、死んでしまいたいと思うくらいであった。
 実際、小学五年生までは戦争で、人が次々と理不尽に死んでいくのを身の回りで見ているし、戦争が終わってからも、栄養状態が悪く、結核など死をまぬがれない病がすぐ近くにある感じであったから、死ぬという選択肢と隣り合わせで生きていた。
 そういう中で、「どうして生きているんだろう。何のために生きているんだろう」という疑問が、思春期を迎えた私に、とりついた。自我に目覚めて行くその入り口の関門である。
 先に光の見えない戦後の混乱の中で、人生は不可解なりとして自殺する学生の話も珍しくはなく、青年のそういった悩みを綴った日記なども出版されていたが、何を読んでも答は出て来なかった。生きていることの意味を見いだせない青春は、暗い。私は、人といる時は努めて明るく振る舞っていたが、一人いる時は、内省的な日記少年であった。
 生きる必然性を求め続けるうち、私は、生命の根源にたどりつく。精子と卵子の結合である。
 「なぜ、何のために、精子と卵子は結び付くのだ。それは神の意思なのか、偶然なのか。いや、結び付くべき自然界のルールがあったのか」
 いくら考えても、その答は得られない。それどころか、その疑問は、「しかし、精子と卵子の結合が生きることの根源だとしたら、ウシであろうとニワトリであろうと同じ原理で生まれているのだから、ウシもニワトリもヒトも、生命の価値は同じということにならないか」という、いっそうややっこしい疑問を呼び起こした。
 ふとした機会に、私はこの疑問を、「じゃあ、ヒトや動物は、なぜ自由に死なないのだろう」とおきかえた。そして、「そうか、動物はみんな生存本能を持って生まれてるから、生きようとするんだ」という答にたどりついたのである。
 そうなると、もはや生きる意義や必然性を求める必要はない。それぞれの人の生命、そして、あたうならば人以外の生命も、それぞれに生きたいという願望を与えられた愛しいものとして、アプリオリに重んじていけばよい。
 こう考えて、高校時代の私は、一応落ち着いたのであるが、大学に入ると、次の疑問が生じてきた。「人は、なぜ、時に死にたいなどと思い、生きることの意義を求めるのであろうか」
 この疑問は、マルクス主義と並んで当時のはやりの思想であった実存主義関係の本を読むうちに、生じてきたものである。生存本能に行きついていた私には、実存主義の発想は実感出来るものがあった。しかし、この疑問に対する答は、実存主義自体からは得られない。
 「人の生存本能がおびやかされるから、人は死にたいと思ったり、生きる意義を求めたりするのだ」というのが、私の答であった。これでマルクス主義と実存主義の関係も解けた気がした。

* * *

 未熟ながら、青春時代、生命というものについて一生懸命考えたおかげで、多くを学ぶことが出来た。たとえば、思想というものは、時代の背景の中で生まれ、死んでいくものだということ。哲学書や宗教書には、やたら難しい記述があるが、まどわされず自分の疑問を軸にして読めば、分かってくるということなど。
 つまり、私は、関門は突破したが、そのため学問に対して生意気になってしまったのである。

(日本経済新聞/1994年10月22日)
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