五〇年から五三年まで多感な青春時代を過ごした京都市立堀川高校は、京都の下町を流れる堀川沿いにある。当時の堀川には、西陣友禅染めが帯のように流されて洗われており、その色模様を見下ろしながら、いまは明治村(愛知県)に移されたチンチン電車が走っていた。
終戦までは高等女学校で、高女かぞえ歌にある「堀川高女に処女はない」とはとんでもないが、開放的な商家の娘たちが多く通っていたからであろうか、大らかな雰囲気があったことは確かで、それは、戦後の学制改革で男女共学となったあとにも引き継がれ、カップルでの登校がもてはやされた。
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三時間目の授業あたりから、立てた教科書の陰で弁当を食うやつが出始める。体育会系でずうたいのでかいKは、食べ終ったあとおもむろに少しおしりを上げて一発ぶっ放すものだから、みんなは彼の後の席を避けた。
指名されると、「今週は動物愛護週間です。いじめるのはやめましょう」と答えるやつがいる。
メンデルの法則を説明した先生に、あどけない顔の女生徒が、「先生、肌の色の違う人同士がしやはっても同(お)んなじどすか」と聞いて、聖職にある中年男性をどぎまぎさせた。
相互扶助の精神に基づく「代返制度」も定着していて、嫌いな授業をエスケープしては映画を見に行った。
当時は祇園の小劇場が二十円ほどの料金でフランスの名画を上映していて、「望郷」「外人部隊」「会議は踊る」「カサブランカ」「パリ祭」など、坊主頭の学生服姿で、しゃれた大人の情緒にひたったものである。
高校一年の担任は、後に神戸大学の教授になった歴史学者であるが、ひょうひょうとして、およそクラス活動には無関心であり、私たちが文化祭に上演する演劇の糠習をしているところに来合せると、「いつも群れておって、まだ、自我が発達しとらんのう」と一言のたもうて、去って行かれた。
国語のH先生はのんびり屋さんで、ある天気のよい日、気分よさそうに校庭を歩いておられるのを窓から見ていた友人が、「どうも歩き方がけったいやなあ」という。子細に観察すると、右手と右足、次いで左手と左足が同時に前に出ているのであった。
背が低くてたっぷり体重のある歴史の先生は、「デモニ」とあだ名されていた。「あれでも柔道二段」の意であるが、デモーニッシュな人でもあった。授業前、生徒がしめらせた黒板消しにチョークの粉をつけ、「準備してきて教えて下さい」と黒板に大書したら、真っ赤になって、その消えにくい字を全身の力で消し取られた。
英語の女性教師は美しい悲鳴の持ち主で、生徒たちは、その声を聞くため、カエルを教壇の下にしのばせたり、さまざまな工夫を競い合った。英語のM先生は、三年の時の授業中、アメリカ式のマナーを教えると称して、クラスでもっとも人気の高かった女生徒にキスをし、全員のひんしゅくを買った。
何だかいい加滅な高校のようだが、みんなけっこう勉強の方も頑張っていて、一年の時のクラス仲間四人が現役で京大に合格した。
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反省すべきことは山ほどある。地理の宿題で、日本地図を写して来いというのが出た。
「地図はわからんかったら見たらすむのに、なんで写して来なアカンのですか」「アホ、覚えるためじゃ」「写して来んかったらどうなるんですか」「通信簿に1(最低評価)付けたる」
「ああ言うててもよう付けへんで」と友遠がいうので、賭(か)けをして宿題を出さなかったら、「1」が付いて賭けに負けた。
過日、翌朝の講演のため夜行列車で福島県いわき市に行った。いわき市は山中にあると思い込んでいた私は(いわき市の皆さんごめんなさい)、朝ホテルの部屋の窓を開け、眼前に海が広がっていたので驚いた。山をつき抜けて日本海まで来たのかと思ったのである(福島県の皆さんごめんなさい)。
やはり、地図の宿題はしっかりやっておかなければいけない。
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