「とてもうれしそうですね」
「ええ、とっても……。私、京都へは、こちらへ来る時に、一夜寄っただけですもの。京都の夜、素晴らしかったですわ。でも……」というのが、高校一年の時「堀川文芸」に発表した小説「灯の歌」の書き出しである。
日本海沿いの漁師町の親戚の家に京都から疎開していた伊庭は、戦争で父を失い、終戦後も京都へ帰れない。その京都へ移り住むことになった同級生玲子との別れを書いた短編である。
結びは、「誰も居ない浜辺で、伊庭は、仰向いたまま慟哭した。彼の頭の中を、灯をもらした長い列車が、遠くへ遠くへと走り続けた。漁船の灯がちらちらとゆれて、信号灯が赤に変った」というのである。ムムム、これぞ青春、この甘さ。
高校時代、文芸部と古典クラブに入っていたが、好きな作家は、リルケ、シュトルム、堀辰雄。特別のお気に入りが、セルマ・ラーゲルレーフの「幻の馬車」。北欧にあがれていた。
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そういえば、安物のラジオで毎夕聴いていたクラシックでは、断然シベリウスとグリーク。暗さにつきまとわれた情熱に、感性が反応した。
ベートーベンよりチャイコフスキー、松尾芭蕉より与謝蕪村、ロダンよりマイヨール、山上憶良より読み人しらずの相聞歌、セザンヌよりルノアール。後に鬼検事になる男とは信じられない浪漫派であった。
文芸部に入った時のキャプテンは三年生で、由緒あるお寺の息子にふさわしい荘重な言い方で、「いい小説を書くには、文学をやってちゃダメだ、理科をやらなきゃ」と言った。
理科の苦手な私にはショックで、その理由を聞くと、「小説はロマンの気分だけで書くと出来そこないの随筆になってしまう。やはり筋が論理的に整合してなきゃならない。しかし、論理の整合は理科をやった者しか出来ないのだ」という。彼は、およそ理科が出来ず、そして彼の作品は、お経のように筋が無かった。
私を悩ましたのは、むしろ詩であった。俳句や短歌には形があるから、ともかく形にはまればそれで落ち着くが、詩というものは、その言葉の必然性が見つからない。いってみれば抽象画で、その色と形の必然性を見つけようとするようなもので、ないともいえないが、あるともいえない。
まあいいや、とのみこんでしまえばそれで良いのであるが、神経質になって、要らない言葉を削っていくと、推敲(すいこう)を重ねた末、結局、白紙に戻ってしまう。「最高の詩は、白紙だ」という言葉が身にしみて分かった。文芸部で、ひとり、そんなことを悩んでいたが、この時知った文章を書くことの恐ろしさは今も残っている。
古典クラブでは、万葉から芭蕉まで、詠まれた場所を訪ね歩いた。浪速から明石、須磨、奈良のみやこから大和路、東に行って琵琶湖、近江の里、伊賀上野と、京都の周辺は、古典をしのぶ場所にあふれている。アルバムを見ると、湖上の手こぎ船で女子生徒の肩に手をかけている奴がおり、大和の古墳で昼寝をしている奴もいて、古典紀行というよりは遠足の雰囲気がうかがわれるのであるが、それが高校生というものであろう。
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皆とガヤガヤやるのが楽しかったが、一人で仏像や庭を見てまわるのも好きであった。戦後数年しかたっていないころだから人も少なく、拝観はおおらかで、広隆寺の弥勒菩薩も、ごく間近に観ることが出来た。
庭は、やはり枯山水。無駄をそぎ落として残った石と白砂から無限に思いが広がる。俳句の感覚である。よく行ったのは、洛北、深泥池から少し登ったところにある円通寺である。比叡山の借景がよい。竜安寺も、かつては都をひろく庭そのものとしてとり入れていたのであろう。
京の街で青春時代を過ごせたことは、幸せであった。
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