「大学受験は、京大を一回だけ」と母に宣言されていたから、かなりせっぱつまった気持ちであった。五三年、英語教師の父の安い給料で、学齢期の五人の子供をかかえ、私は高校の修学旅行にも行かせてもらえなかった。
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一年の時演劇に加わった連中を中心に、「どんぐり」と呼ぶグループが出来上がっており、毎日だれかの家に集まって時を過ごしていたが、その仲間から四人が京大を受けることになった。そこで相談して、三年の夏休みをもって遊びをあきらめ、受験勉強に集中することと決めた。集中するというのは、夜も横になることなく、机の上で眠るということである。
受験科目は六科目であったが、法学部希望の私がなぜ解析Iなるものを学ばねばならないのかがどうしてもわからない。
もう一つの数学科目である幾何は、論理的思考力を養うということで学ぶ意義が分かったから、自然に定理も覚え、好きであったが、解析なるものが、文科系の人間にいかなる意味で役立つのか、いかなる能力を育てようというのか、ついに分からずじまいであったから、その学習は、旧式の胃カメラを飲み込むようなものであった。
生物も、遺伝や進化論などは人類の今日を理解するのに大いに役立つから、好んで知識を求めたが、当時の生物は、分類などという無味乾燥な分野が幅をきかせていて、自分でも嫌になるほど暗記の苦手な私には、そのあたりの参考書を開こうとするだけで鳥肌が立った。
世界史も同じである。人類発展の歴史は実に学ぶところが多いのであるが、やれ西暦何年にどの国が滅んだとか、それ何年に中国でこんな書物が書かれたとか、その国の滅んだ意味も分からず、その書物の中身も知らず、そんなことを丸暗記して何になるのだという思いがあるから、どうしても頭が年号を受けつけない。
もともと人には好奇心があるから、学ぶということは面白いはずなのであるが、理屈も理解も抜きでどうでもいいような知識を無理やり詰め込もうとするから勉強嫌いになる。だから日本の大学生はあんなに勉強しないのかな、と実は今でも思っているのであるが、哀れなる受験生の立場にある者は、そんなことは言っていられない。
私は、これを、身にふりかかってきた災難だと考えることにした。
尼子の勇将山中鹿之助は、山の端にかかる三日月にむかって、「我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという。襲ってくる試練にひるまず立ち向かい、力の限りをつくしてたたかうことによって、さらに力をのばすことが出来る。試練自体は災難で、意味がないものだとしても、それによって己の力をためし、成長の機会が与えられることに意味があると考えた。
当の山中鹿之助は敵にとらえられ、舟で川を渡る際、切られて三十四歳で生命を失っているから、いささか心もとない気もしたが、その祈りには共鳴できるものがあったので、七難八苦克服路線でシャニムニ丸暗記した。
しかし、およそ机に座りっぱなしというむちゃを続けて体が持つはずもなく、冬を迎えると風邪が治らない。暖房などなく、毛布を体に巻いているだけだから、京の夜寒に勝てず、扁桃腺(へんとうせん)がはれ上がって高熱が引かないのである。
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受験の日にこれでは試験場に行くのもおぼつかないというので、一月二日に扁桃腺を取ってもらった。舌がしびれては危険だというのでほとんど麻酔もせずに切り落としたから、手術の間中わめき通しであった。
このようにして扁桃腺二つをいけにえにして、京大法学部に合格できた。どんぐりグループの四人も一緒に受かった。
山中鹿之助様のおかげであるが、歯を食いしばって丸暗記した知識は、あっという間に消え去って、何も残っていない。残っているのは、記憶することは辛くて嫌なことだという強い感覚だけである。
それにしても、教え育てるはずの機関が、人に災難をもたらしてよいのであろうか。
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