キャンパスには、共産主義の嵐(あらし)が吹き荒れていた。五五年体制確立前夜、京大でもストが起き、滝川幸辰総長がもみ合いで肋骨(ろっこつ)に被害を受け、荒神橋でデモの規制を受けた学生が、鴨川に落ちた。
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同窓の友達に、「あれは何でストしたんだっけ」と聞いたが、「さあ、何だったかな、結構長いストだったけど」と彼も思い出せない。しかし、社会には学生が怒る原因は山ほどあった。就職口も、物も、お金も、希望も、何もかもが少なく、腹をすかせていら立っていた。
そんな中で、刹那(せつな)の遊びを求める者、将来にそなえ、ひたすらよい成績をとることに専念する者など、学生たちの対応もさまざまであったが、かなりの者は、若者特有の正義感にかられ、世の中の悪とたたかおうとしていた。
その悪の権化として学生たちに提示されたのが、貧しき労働者たちを搾取する資本家であり、また、彼らを支える「日米の帝国主義者」たちであった。
貧しさから慢性的欲求不満状態にあった学生たちは、善良なる労働者や学生の血をすする帝国主義者というイメージを理論立てて説かれると、その不満と正義感を爆発させ、悪者たちを倒すべく行動に走った。
わが堀川高校から京大に入った先輩が、あっという間に下町の人情の世界からベイテイ(米国帝国主義者)打倒の世界に入り、私にも共産党入党を勧誘に来た。
すでに中学時代から「共産党宣言」も読んでいた私は、大いに好奇心を燃やし、共産党京大吉田細胞秘密会犠の見学を希望した。やたらに面倒な手続きを踏んで、ニッテイ(日本帝国主義者)の手先である警官に見付からないよう暗い小道を引きずりまわされた揚げ句、私は、どこかのアジトで開かれていた秘密会議に顔を出すことが出来たのである。
それは、何とも珍妙な光景であった。窓に黒幕を張り、薄暗い部屋の中に、やせっこけた男たちが整然と座っている。末席で神妙に座っていると、上席にいる中年の労働者風の男一人が、やたらに威張って指示している。そのうち、何やら戦術の間違いを犯したとかで一人の学生が責められ始め、この学生は真っ青になって己の過ちをわめきはじめた。それを尻馬(しりうま)に乗って情け容赦なく責める学生がいて、よく見ると、わが高校の先輩の一人である。
彼は高校ではオーロラの夢といったような、とてつもなくロマンチックな小説を書いていた男である。それがいつの間にか、かなりの幹部になっているらしい。どうもインチキ臭いな、というのが私の直感であった。そして、何よりも、軍隊組織以上に思えた上命下服ぶりと、ぎょうぎょうしい秘密主義には耐えられなかった。
私は、入党はことわったが、共産主義に興味を失ったわけではない。それは時代の中で、大きく息づいていた。しかし、それが正しい思想なのかどうかが、まだ分からなかった。特に、マルクスやレーニンとはどうもニュアンスの違う毛沢東を知りたかった。私は、中国研究会に入り、「矛盾論」などを学んだ。
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それは、日本よりももっと貧しかった中国社会と重ね合わせて見ると、よく分かる理論であった。その中国から要人が来て、京都の都ホテルに泊まった。ニッテイが彼を襲撃するおそれがあるというので中研部員はかり出され、冬空のもと、徹夜でホテルの警護に当たらされた。風車とたたかうドンキホーテのようなバカバカしさを体験して中研を辞めてしまったが、そのころには、共産主義について私なりの結論を出していた。
それは、「食べる物にも事欠くほどに貧しい時は、人は、公平を求め、共産主義を受け入れる。しかし、食べられるようになると、自由を求める」ということである。
この考えは、基本的には、今も変わっていない。
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