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定期連載 青春の道標
更新日:2005年9月16日
司法試験に挫折し 周囲の温かさ実感

 司法試験に合格するにはX先生の説とY先生の説を頭に入れて、といったような要領のよい勉強の仕方が出来ない性質なのである。
 刑法を学び出すと、「なぜ人が人を罰することが出来るのか」といった種類の根本的疑問が頭をもたげてきて、これに納得できる答えが見つからないと、先へ進めない。入り口でひっかかっていて、法律というものがしっくり身に着く感じがないまま大学の四年生となり、遂にその年は司法試験の受験をあきらめ、一年留年して勝負をかけることにした。

* * *

 そのころわが家は、父が書いた何冊かの英語受験参考書がよく売れたおかげで、経済的にはあるていど楽になっていたものの、下に四人の弟妹が居るのだから、長男に留年されるというのはかなりつらいことだったに違いない。しかし、父母は、一言も文句を言わず、認めてくれた。
 私は、島根の山奥にある産みの母の実家に引きこもることにした。そうしないと、友達と酒をくみかわす誘惑に勝てないと思ったからである。それでも友達の一人が一緒に行って勉強するというので、実家から二、三里離れたところに彼の下宿を見つけ、土曜日の夜しか会わないことにした。
 産みの母は私が四歳の時に病死したのだが、当時は祖母が健在で、畑の仕事をしながら私の面倒をみてくれた。山中の一軒家で、聞こえるのは川のせせらぎの音だけ。裏山には猿が出、窓を開けていると明かりを求めてとりどりの黄金虫やかぶと虫、くわがたなどがとび込んでくる。もう勉強する以外何もすることがない環境のもと、私は、例の山中鹿之助流七難八苦路線で六法に挑んだ。
 おかげで模擬テストの結果も上々となり、京都に戻って受験仲間と議論してみても、負けない。だから、大学五年の初受験ではあったが、受けるときは自信満々であった。
 ところが、落ちたのである。高校、大学を通じて親しかった仲間二人が合格していた。
 親に顔向けが出来ない。期待してくれていた人たちにどう言えばいいのだろう。負け犬みたいにして友達にあうのはあまりにつらい。そして何よりも、自分が信じられない。はじめて経験する人生の挫折に、私は、これからの日々をどう生きていっていいのかが分からず、居場所を失っていた。
 そんな私に、父母も仲間も知り合いの人々も温かかった。当時の日記をめくると、私を慰め、励ましてくれた人々の言葉が、たんねんに記されている。特に、「あなたの力を信じる」という励ましに、感謝している。私は、それまでに築いていた「愛情のネットワーク」に支えられて心の傷をいやし、自分をとりもどしていったのである。

* * *

 今でもしみじみ思う、あの時落ちてよかった、と。もしあの時合格していれば、私は、鼻持ちならないうぬぼれ屋になり、周りの人たちにうとまれながらそれにも気付かず、あわれな人生を送ったに違いない。
 私は、京大に入った時、そういう人間にならないと決め、経歴などにかかわらず、いろいろな人たちとつきあうよう心掛けてきてはいたものの、やはり自分の能力についてはひそかに自信を持っていて、それがごう慢さになりかねないおそれをいつも感じていた。そのおそれを、あの時の不合格が摘み取ってくれただけでなく、人のやさしさの力というものを、体の底から実感させてくれたのである。
 私は、再びアルバイトをしながら大学院に進み、平場安治教授について刑法理論を学んだ。教授の学説は、さかのぼれば実存主義にもつながる理論で、すんなりと頭に入っていった。
 大学院では、基礎理論にひかれて学説を読みあさったものの、受験勉強にはあきあきして丸暗記するエネルギーが続かなかったため、二回目の受験の時は、まったく自信がなかった。
 ところが、運がよかったのであろう、今度は合格し、私は、汚職摘発をめざして検事となるための最初の関門をくぐり抜けることができたのである。

(日本経済新聞掲載/1994年12月24日)
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