青春の特微は、吸収にあると思う。どん欲にいろいろなものを吸収して、成長していく。その吸収が続いている限り、人はいくつになっても青春期にあるといえよう。
吸収力が盛んな青春時代、大人たちは、身に着くものの吸収を妨げてはならないし、同時に、フォアグラではないのだから、身に着かないものの吸収を強いてはならない。そういう意味で、私の両親は、ともに理想的であった。
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私の先祖は代々京都で酒造りを営んでいたが、祖父の代に家運が傾き、父は苦学して同志社大学を卒業、英語教師となった。京都府の北部、宮津市の中学教師時代、母朝子との間に生まれたのが私である。
母はやがて病死し、父は私が五歳の時、宮津女学校の英語教師であった養母四奈と結婚、二男二女を設けた。その間、私が小学二年になる時、父は、大阪学芸大学(現大阪教育大学)で教べんをとることとなり、一家は京都に戻っている。
父は、志賀直哉や武者小路実篤、ホイットマンなどを尊敬していた明治のリベラリストであり、母は、英文の「巌窟王」を訳しながら読んでくれる、大正のモダン女性であった。
私がマルクスやレーニンの本を読み、大学で中国研究会に入ったりしたことは、父にはショックであったに違いないのだが、何も言わない。人の善意を信じるだけで、およそ社会の仕組みに興味を示さない父にいら立って、ある時、私は、わざと過激に、暴力革命の歴史的必然性を説くマルクスの理論を説明した。
黙って聞いていた父は、とても内容を理解したとは思えなかったが、暴力などとんでもないというかと思いきや、「もし力君がその考え方を正しいと思うなら、その考え方に従って生きなさい。世間がどう思ってもよい、自分に忠実に生きるということが一番大切なことです」と言った。まいった、という感じであった。
父が生き方について私に語ったのはその一言ぐらいのものである。だから、父の振る舞いから黙って学んでいくほかなかった。
私が大学生のころ、父は、付属小・中学校の校長兼務となり、すると、お中元やお歳暮などが届くようになった。しかし、父は、「不公平になるといけない」と言って一切受けとらない。「返送代が高うついてかなわんわ」とぼやきながら、母がせっせと送り返していた。
その母も、私の自由を最大限に認めてくれた。
中学三年生の時、母は、私の担任に呼び出されてしかられたことがある。私は学級委員長であったが、二、三人、いい加減な先生が居て、まじめに授業するようねじ込んだりしたところ、態度が反抗的だというので母に注意しようとしたらしい。
心配していると、帰ってきた母は、「学校でどんなことしてるか聞いてませんけど、家じゃとてもいい子です。それが学校で悪いと言われるんなら、それは学校の教え方が悪いからとちがいますか、と言うてきた」とさっぱりしたもので、学校で何があったのかなど、一切聞かなかった。
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父に先立たれ、母も肺がんで入院生活を送るようになってから妹が話してくれたのだが、私の大学生時代、父母が口論しているのを聞いてしまったという。私が占拠していた離れ部屋への友達の出入りがメチャクチャで、夜になっても落ち着けない、と母が父に苦情を言った。しかし父は、「もう大学生なんやから、本人に任すしかないやないか」と言って、私に注意するのを拒んだらしい。
私の自由な振る舞いが、父母の夜の自由を奪っていたと知って、私は夫婦としての父母に思い至らなかった自分の若さを悔やんだ。せっかちな父と気の強い母であったのに、二人はほとんどけんかもせず、最後まで恋人同士のような感じですらあったのである。
その母も四年前に死に、妹や弟が焼かれた骨の頭の部分を次々に骨壷(つぼ)に納める中で、私は、白くてきれいな母の恥骨を一片、父のため壺に納めた。
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