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更新日:2005年9月16日
認知症当事者の人権

 認知症(痴呆症)の当事者も「人」として人権があることはいうまでもない。特有の問題は、認知症に対する誤解のために、不当な処遇を受けるという人権侵害である。

一 認知症という用語と人権

 明治の末期から平成十六年まで用いられていた「痴呆症」という用語は、「痴」も[呆」も人格を侮辱する言葉であるから、これを変えるのは遅きに失したくらいである。
 厚生労働省が平成十六年「『痴呆』に替わる用語に関する検討会」(座長高久史麿自治医科大学長)を設け、広く国民の意見も徴して検討した結果、長谷川和夫先生が強く推奨しておられた「認知症」という言葉が選ばれた。要するに、「認知能力が損なわれる症状」という意味である。これならば、用語自体は侮辱的意味は持たない。
 ただ、私も同委員会で主張しておいたが、この用語にも留意点はある。「認知」とは、見る、聞く、認識する、記憶する、考える、判断する、表現するなどの知的能力を総称する用語として用いられているが、認知症は、これらの能力すべてが損なわれる症状では決してないということである。実体は、これらの能力のうち、記憶能力の一部が損なわれただけであって、他の能力はきわめて正常という段階の人が多数だということを、正しく認識しておきたい。認知症が全認知能力の障害だと誤解すると、それが人権侵害の原因となるおそれが強くなる。

二 認知症当事者の尊厳

 認知症の当事者の人権を守るために社会の全員が認識しておくべきことは、認知能力の一部が損なわれていても、人としての尊厳は、認知症でない人のそれと同様に尊重されなければならないということであろう。
 認知症になると、人は、記憶の欠落や誤解、幻想などから、異常な言動を取ることがあり、そのことから、周辺の人々は、その人の脳がこわれ、全人格が異常になってしまったと判断しがちであるが、これは誤りである。
 たとえば記憶能力に障害が生じ、自分が今居るところが自宅であることを忘れた状態を想像してほしい。自分が今居る家が見知らぬ家で、いつからそこに居るか判らないのだから、不安になる(不安になるのは正常な反応である)。すると、知っている場所を求めて俳徊(はいかい)したり、大声で叫んだり、心細くて泣いたり、そこにあるものが何か確認したくてガスコンロや電気器具のスイッチをひねってみるなど、異常な行動に出るが、これらは不安がもたらす正常な反応であって、異常なのは、記憶の欠如という現象だけである。感情や判断能力、行動能力などが損なわれているわけではない。ところが、言動だけからすると、その全部がおかしくなったように見えてしまう。だから、かつてあったように、一室に監禁して世間から隔離するなどといった、非人道的措置に走ったりするのである。
 認知症になっても、人としての感情や能力がいかに豊かに残っているか、そして、自分の能力の一部が徐々にこわれていくことをどんなに不安に思っているかは、四十六歳でアルツハイマー病(認知症の一種)になり、平成十六年に国際アルツハイマー病協会国際会議・京都で講演したクリスティーン・ブライデンさんの著書「私は誰になっていくの?」「私は私になっていく」(共にクリエイツかもがわ)を読めばわかるし、認知症になった当事者をその人の立場で観察していれば自然に感じ取れることである。
 認知症とはそういうものであり、人としての尊厳を損なうものでは決してないという認識を広めることが人権尊重への第一歩となる。

三 認知症当事者の尊厳確保の特徴

 認知症の特徴に対応して、認知症の当事者に対する処遇の特徴も出てくる。主なものを三つ述べると、第一は、当事者がなじんだ住居や周辺の環境と人的環境とを、可能な限り変えないことである。言い方を変えれば、常に当事者の存在が肯定され、受容されているという安心感を当事・者に持たせる雰囲気をつくるということである。居場所づくりと言ってもよい。
このことは、平成十六年に高齢者介護研究会(座長は、不肖私)が出した「二〇一五年の高齢者介護−高齢者の尊厳を支えるケアの確立に向けてー」で強調したし、それを具体化した認知症介護研究・研修東京センターの「センター方式の使い方・活かし方」も発行されている。
 特に、認知症当事者の家族は、このことの重要性を認識しておいてほしい。ただし、家族が自宅で介護せよという意味ではない。
 第二は、本人の知覚に合わせて対応することである。
 当事者は、記憶の欠落などのためとんでもない錯覚を起こしたりする。よくあるのは盗難幻想であるが、認知症当事者への適切な対応を先駆的に編み出し、本にもしておられる川崎幸クリニックの杉山孝博院長によれば、その時は「ちょっと借りてました」と言って一万円札を渡せばよいのだそうである。当事者は、頼りにしているお金が見当たらず、パニックになって家人を泥棒呼ばわりしたに過ぎないから、お金さえ見せれば落ち着くという。お金はあとで取り戻しておけばよいというところが面白い。
 場所の錯覚、人の錯覚、所有物の錯覚など日常的に起きるが、その錯覚を否定すると当然抵抗する。本人の知覚に合わせて賢く対応しなければならない。
 第三は、当事者の持つ能力を活用することである。役割を持つことで当事者の精神が活性化し、それが眠っている能力を呼びさます現象が起きる。福祉の現場で、さまざまな経験が蓄積されつつある。
 以上に述べたような対応は、家族や担当ヘルパーがするだけでは足りない。認知症当事者も地域で暮らすのがその尊厳確保のためにより好ましいのであるから、地域ぐるみで適切な対応をしていくことが必要である。

四 キャンペーン

 認知症当事者が認知症に対する誤解のために不当な処遇を受けることをなくし、当事者の尊厳を確保するためには、地域のすべての人が認知症の特質を正しく理解し、適切に対応できるように、正しい知識を普及させなければならない。
 そのような普及運動を展開、推進するため、厚生労働省の肝いりで、「認知症になっても安心して暮らせる町づくり一〇〇人会議」を設置することとなった。発起人代表に私、副代表に長谷川和夫先生、事務局は認知症介護研究・研修東京センター、呆(ぼ)け老人をかかえる家族の会、国際長寿センターが共同で当たる。官民協働の組織体であり、プロジェクトであり、来る七月八日の発会式でスタートの予定である。
 キャンペーンはとりあえず一年としているが、十年をかけてじっくり普及に取り組む所存である。十年後には、日本中のすべての地域を、認知症当事者を含むすべての人々が、それぞれに尊厳を持って暮らせる地域にしたい。世界人権宣言も、人権規約A・B共に、前文の冒頭に、人類社会の構成員すべての尊厳をうたっている。
 最後に、認知症の原因解明及び治療法の開発と、介護保険制度上、認知症の特質に応じた認定及びケアの確立が重要であることを強調しておきたい。

(アイユ掲載/2005年5月15日)
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