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つれづれタイム
更新日:2005年9月16日
ガキ大将も手下に“君臨”

 いたずらっ子でしたね。四歳のとき、生みの母が病気療養のため島根の実家に帰ったので、一人っ子の私も連れて行かれたのですが、いたずらばかりしていた。祖母をおもちゃの鉄砲で撃ったり、落とし穴を掘ってわなにはめたり。「危険だから、置いておけない」と追い出されました。
 母は祖母に面倒を見てもらった上に、私が迷惑をかけ、悲しかったでしょうね。半年後に母は亡くなり、いまは後悔しています。
 現在の京都府宮津市で英語の教師をしていた父はまもなく再婚。新しい母は厳しい人で縁側のふき掃除をさせられ、きちんとしつけられました。でも、わんぱくぶりは小学校に入学しても相変わらず。二年のときに京都市の学校に転校しましたが、そこでいばっていたガキ大将に石を投げて気合で制し、すぐに手下にしました。体力や運動神経で勝っていたわけではないんですがね。
 戦時中で、私も学級に兵隊の階級を導入し、級友を大尉、少将、一等兵などとランク付けした。私は大将。逆らう人が出たら、みんなを並ばせて、机を集めた上に立ち、対決するんです。上がってくるのをけ飛ばせばいいんだから有利なんです。そうやって学級を「統治」していた。
 五年生のときに兵庫県に疎開。成績は体操と音楽以外「優」で級長でした。みんなの意見をまとめるのが上手だったのでしょうか。勉強ができない子やしかられてばかりい
る子がついてきて、ボディーガード役を務めてましたね。
 六年で京都に戻り、卒業式を迎えました。成績の良いまとめ役が総代に選ばれるので、自分も周りも私になると予想していたら、意外な生徒が総代になった。聞けば、その子の親は金持ちの有力者で学校に影響力を行使したらしい。初めて大人の社会に触れた経験で、「不公正は許されない」と憤慨したものです。
 中学では、終戦で帰還した代用教員がいて、女生徒の胸を触ったり、生徒に暴力をふるったり、ひどい状況でした。私は学級委員長として「改めないと教育委員会に通報する。学級新聞にも書く」と学校側に抗議したので、そんな教師から恨まれました。
 三年の時に母が担任に呼び出され「反抗的で抗議行動ばかりしている」と注意を受けましたが、母は「家ではいい子なので、先生の方が悪いのでは」と突っぱね、救われた思いがしたものです。でも、卒業式後の修学旅行で、私を気にいらない教師三人が「卒業したのだから、もう責任はない」と他の生徒が見ている前で私をぶん殴った。教師から生徒への「お礼参り」です。本当に悔しかった。自分のしたことは正しかったのに。
 父は私に対して放任主義でしたが、仲間や地域からは、お互いに楽しくやるための社会性を自然に学べ、良かったですね。今の子供は、子供同士で学び合うことがなく、知識はあっても個性や社会性に乏しい。人間を育て、社会性を高める教育が必要ではないでしょうか。

(朝日新聞掲載/1995年6月14日)
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